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社会的処方の現状・感想|Dr.西智弘の本をはじめ ~大好きな人にも、大嫌いな人にも~

読書+医学書Log&Link

社会的処方 孤立という病を地域のつながりで治す方法

西智弘(編著),学芸出版社

大好きな人はもちろん、大嫌いな人にもおススメの本+論文~

 

<目次>

 

 SDH診療実践アプローチのひとつでもある社会的処方。医療現場に持ち込まれる問題の上流にある社会的孤立等の問題を解決しようと試みる方法のひとつです。医療機関に持ち込まれた社会的問題・課題(例: 孤立、貧困)を、社会的問題を扱うところ(例: 社会福祉協議会→様々な市民活動)につなぐ橋渡しをすることです。

 今回は西智弘先生の著書『社会的処方 孤立という病を地域のつながりで治す方法』を軸にしつつ、社会的処方の現状感想・考えなどを綴りたいと思います。

 本書では、イギリスのgeneral practitioner(GP)の話でも出てくる社会的処方の概要から、日本も含めた具体的な話について書かれています。今回は、社会的処方の先にある社会的問題を扱う活動に個人的にボランティアで参加させてもらったことをきっかけに、それに先立って読み直しました。

 この本はあくまで医学書なので、この本の読書ログと、その感想に合わせて他の医学書コーナーにある医学書2冊論文もリンクして交えつつ、感想考えなどを紹介したいと思います。

(注)SDH: Social Determinants of Health(健康の社会的決定要因)

 

 

https://m.media-amazon.com/images/I/51ueRudtzzL._SY291_BO1,204,203,200_QL40_ML2_.jpg

 

【こんな人におススメ】

  • 社会的処方等の社会的介入大嫌いな医療者
  • 社会的処方等の社会的介入大好きな医療者
  • 社会的処方について理解したい人
  • リンクワーカーとは何か知りたい人

 

 社会的処方大好きな医療者はもちろんのこと、社会的処方が大嫌いな医療者にも読んでもらいたいというような本です。特に臨床において医療者の仕事を通り越して「医者が医者が」と大好きな人は、社会的処方の医療として適切な関連・介入度合いを知るきっかけにもなると思います。そして、そのような「医者が医者が」というような人を見て、社会的処方にマイナスイメージを感じた人にも、医療者はそうあるべきではなくて適切な範囲(下図のリンクワーカー程度まで)でお手伝いすれば、理にかなった解決策のひとつになりうるということも感じてもらえると思います。

 

社会的処方の個人的なイメージ図

 社会的処方についての個人的なイメージ図です。よろしければご参考までにお使いください。これから感想だけでなく、この辺りのことに対してモヤモヤ感じていること・期待していることを含めて色々と感じていることを述べていきたいと思います。よろしければ、お付き合いください。

 

 

1. 西智弘先生の特徴

 まず、導入部分で社会的処方について掴みやすいようにイラスト付きのページからは始まります。「医療機関にもちこまれる問題の2~3割は社会的な問題といわれています」というような分かりやすいメッセージからイメージを掴みます。

 そしてイギリス社会的処方のできた背景から仕組み、期待されるアウトカムなどを紹介しています。その社会的処方とは、医療機関にもちこまれた社会的な問題に対するセーフティーネットのようなものです。その社会的な問題を解決していく際に社会とのつながりをつくるためのカナメとなるリンクワーカーについても紹介されています。

 

 日本での事例も多数紹介しています。社会的処方の活動に関する解像度を上げてみたり、活動してみたいと感じる人にはとても興味深い部分ではないでしょうか。そして、この本の臨場感の高さもここにあると思います。

 例えば、仕事絡みで不眠という場合には、根っこの部分には「雇用」という社会的な課題があることなども説明されています。他にも、孤立(≠自ら望む孤独)が「健康」に悪い影響をもたらすとされ、それを改善するために社会的つながり大切と言われています。

 そして、医療に持ち込まれた社会的な課題を解決するリンクワーカーによる紹介先の活動のようなものが、具体的に詳しく多数紹介されています。そのような活動の多くにおいて、活動者は医療者の方が少ない、活動内容は医療者の専門性との関係性が薄いことも分かるかと思います。読みやすい文章で事例紹介をされていて、「医療者もやれ!」や、その逆のような、いずれの方向でも偏っている人を制止するようなフラットな方向でのメッセージ性もあり、参考文献も挙げられている部分も良かったと感じる本です。

 

 

2. 現状感想など

 社会的処方について誤解している人には、まずは賛成するにも、反対するにも、把握からという意味で重要な本のひとつだと思います。社会的処方、さらには地域診断や社会的バイタルサインという言葉における「処方」、「診断」、「バイタルサイン」というような言葉が誤解を与えがちなのか、医療化」しすぎなのかと感じることがあります。例えば、自然に触れることや人とつながることの意義は承知していますが、元からある医療とは言い難いものに対して「処方する」などと言うような医療的な押しつけがましい言い方には疑問を感じることがあります。

 このような言い方の問題はさておき、社会的処方は医療専門職以外も多数含めた多職種のおける社会連携のようなものだと捉えると良いと感じました。盲目的に医者がやるべきと信じているような人へ釘を刺すようなバランスもあり、社会的処方が、ひとつの視点だけからの、絵に描かれた餅のような理想ではないことも伝わってきます。

 患者Well-Being健康増進だけでなく、医療に持ち込まれる患者の社会的問題による医療者の負担軽減医療費軽減も目的とされていて、その目的に必要性や合理性も感じました。断らない救急で働いたら、同じ夜に複数回救急要請をして、複数回受診、さらに翌朝の一般外来は受診なし、というようなことも何度も経験しているので、なおさら納得です。これは極端な例にしても、その社会背景を考えると、中途半端に医療者が首を突っ込めるようなことではないと感じるのではないでしょうか。そして、医療者が思いつく社会的な課題を扱うためのことの大半は、すでに存在している、もしくはすでにアイデアとしてあるはずです。

 やはり、医療者社会的問題を直接的に扱うのではなく、地域包括支援センター社会福祉協議会のような「つなげて」くれる場所と連携し、社会的課題を扱う社会資源を提供する場所へのお願いが大切だと感じます。そして連携できるように、そのような情報まとめておいたり、協力依頼できる関係にしておくこと、すなわちリンクワーカーの役目こそ、大切だと感じました。なぜかというと、医療者が扱っても費用対効果はもとより、アウトカム心配もあります。

 ただし、日本には制度としてのリンクワーカーが存在しないため、医療機関で割ける資源になおさら限界があるでしょう。そこまででなくても、社会的孤立が誘因によるものに対しても、薬の処方等だけでなく、根本的な原因の改善に向けた提案ぐらいはしたいものですが(価値観の押し付けには気をつけつつ、短い時間で効果はあるものか…)

 

 この本の中では、地域で「屋台を引く医師」をしている守本陽一先生のお話も書かれています。屋台や本屋のようなレベルまでやるのが医療者全体にとっての理想やコアではなく、賛同するのであれば、個人的にできる範囲で良いということこそ、メッセージなような気がします。賛同できるなら医師・医療者としての仕事ではなくコミュニティ活動として、ちょっと参加者として個人で顔を出してみるところからで良いと思います。本書の中にもあるような、「医療者の〇〇さんではなく、〇〇さんは話していたら医療者であった」という感覚で良いと思います。そして、その屋台を引く人は医師でなくても良いという事も感じました。

 また、医療機関に持ち込まれた社会的問題に対するリンクワーカーの役目より先の活動そのものは、ボランティア中毒のような状況に気をつけつつ、各個人のボランティアのような感じで良いと感じます。趣味やボランティアとして介入する分には、ダメな部分も含めて自分が関わりやすい部分に関わるというようなこともしやすいでしょう。一方で、職業とし介入せざるを得ないとなれば、なおさら回避できない困難なケースに遭遇すると思います。

 

 「こういう医療者・医師になりたい」という各個人の夢のようなものもあるかもしれません。しかし、この屋台のような社会的つながりを作る活動と、医療(特に保険診療医療機関)の活動を一般論としてある程度分けて考える必要性も感じました。

 例えば、保険診療のクリニックに来て先生と話をすることが、人と話す貴重な機会になっている孤立した患者さんを例に考えてみます。表面的なSDH診療のみ*の視点から言えば、そこで「寄り添う」ことで毎回15分や20分といった長い時間話すことも良いかもしれません。

 しかし、通常の診療所であれば、経営の話も入ってきます。例えば、医師1人とその他の医療者や事務員から構成される内科系の診療所における損益分岐点を考えてみます。1日の診療人数の損益分岐点は約40-50名ぐらいです。すると、損益分岐点は約6名/時間です(これでもまだマシな方で整形外科では倍近い人数になります)

 多少の経営努力による患者1人あたりの診察時間増加は見込めても、医師が1人の患者さんにかけられる時間は、基本的に10分未満になるでしょう。信頼関係を築くための会話ももちろん大切ですが、直接的に病気に関することも聞かなければいけませんし、病気と関連する治療や生活上の目標のような話もしないといけません(運よく意図しない雑談で医学に関連することが聞けることもあるかもしれず白黒はつきにくいですが、そうはいっても主軸ではないはずです…)。さらには処置やカルテ記載等もしないといけません。他にも、初診患者対応のような普通の再診以上に時間のかかる診察もあるので、普段から10分以上話すことはもっと厳しいでしょう。他の患者さんを待たせてしまうことにもつながります。

 この患者さんに対して「話が長い」というレッテルを張るようなスティグマは良くない面があります。一方で、医療機関で話を聞くことで解決しても対処療法的です。本当の意味で寄り添うのであれば、この本で紹介されている社会的な活動をしているところへ紹介した方が良いと感じます。また、このようなことをして経営上の問題で継続性があるとすれば、従業員も迷惑でしょう。後で賃金が払えないというようなことになった場合に、大義名分を言い訳にするのはどうかと思います。さらに、その地域から診療所や病院がなくなってしまうことになる可能性もあります。

 損益分岐点が6名/時間というのは分かりやすい数字なので使用しましたが、決して変な数字ではないと考えています。損益分岐点は、診療報酬、人件費、テナント料、患者1人当たりの診療報酬、宣伝費、機器のリース代、光熱費等で変わってきます。都心部であればテナント料による圧迫、僻地であれば医師確保による人件費等での圧迫など、様々なことも考えなければいけないでしょう。このようなことは、例えば、『診療所経営の教科書』のようなものにも簡単に触れられています。

 

 また、「こういう医療者・医師になりたい」という想いが偏りすぎているのか/強すぎるのか、現状把握が甘いのか、一部の家庭医等で「長い時間、医師が患者さんと話せばよい」というような解決策を考える人がいます。1つの視点だけからの絵に描いた餅のような単なる善のようなもの理想だけでは、実現が難しいということも考えさせられるでしょう。そもそも、「こういう医療者・医師」という夢の中に医療・医師以外のこと持ち込みすぎているのかもしれません。

 さらに、他で稼いできて赤字を補填するという方法も考えられますが、全体論としてそれを一般的な医療(保険診療)として普及させるべきでもないでしょう。医療者・医師以外のことの多くは、人としてコミュニティ活動なり、友人関係なり、様々なところで達成すればいいでしょう。

 また、個人レベルでまず行動を起こせる診療所経営のようなミクロで現実的な視点を抜きにして、政治家も使いそうな「向き合う」、「思いやる」、「寄り添う」というようなふわっとした抽象的な耳障りの良い言葉だけで締めくくることは難しいと考えています。

 個人レベル改善できるミクロな視点に加えて、さらにマクロな視点に目を向ければ、これを実現するための診療報酬の在り方をはじめ、医療経済などの考える点は複数あるでしょう。そして、医療政策や政治の視点もあるでしょう。他にも、町営診療所であれば、診療所自体は赤字で補填されるかもしれませんが、将来の世代へのお金の使い方とのバランスも含めた町のお金の使い道として、医療資源の配置として適切かを、なおさら考えないといけないでしょう。医療者も限られた医療資源(身体的、精神的リソース等)です。

 すごい理想があったとしても、まずは個人レベルも含めてできるステップからだと思います。「こういう医療者・医師になりたい」といっても足元からでしょうか。そして、再現性のない自己啓発のように理想を固定しすぎず、ベストだけを追い求めず、ベターを意識して修正しつつ、「オプションB(次善の選択肢*」のようなものを意識しておくと進めやすいように感じます。

(注)『OPTION B(オプションB) 逆境、レジリエンス、そして喜び』,日本経済新聞出版,シェリル・サンドバーグ (著), アダム・グラント (著), 櫻井祐子 (翻訳)



社会的処方のエビデンス

 社会的処方に関するエビデンスについても少し触れておきたいと思います。社会的処方が考えられた意図は素晴らしいと思います。ボランティアであれば、費用対効果まで考える必要性はなかったり、アウトカムもマイナスにならずにちょっとプラス程度であれば良いかもしれません。しかし、医療(公共性の高い保険診療として介入するとなれば、それに見合うかどうかのエビデンスも気になるところです。BMJ OpenのSystematic Reviewを簡単に紹介したいと思います。

社会的処方に関する8つの研究(n=6,500)

  • 4つの研究では、健康に関連するQOLに対して影響がなかった。
  • メンタルヘルスに関して4つの研究のうち、3つの研究では影響がなかった。
  • 米国の2つの研究では、多疾患合併患者において、質の高いケアに対する評価が改善し、入院が減少したことが示された。
  • 費用対効果に関する分析は確認されなかった。
  • バイアス等により、エビデンスの確実性はとても低い、または低かった。

社会的処方のリンクワーカーに関するの効果を示すエビデンスは十分ではない。政策立案者はこのことに留意し、流布する前に現在のプログラムの効果の有無や程度を評価していくべきである。

(出典)BMJ Open. 2022 Oct 17;12(10):e062951. doi: 10.1136/bmjopen-2022-062951.

pubmed.ncbi.nlm.nih.gov

 これを見ると、社会的処方によって良い結果出せていないものも半分以上あります。日本ではリンクワーカー(医療に持ち込まれた社会的課題を、社会的課題を扱う部署へとつなげる非医療職)こそありませんが、費用対効果まで考えると医療者リンクワーカーのような部分も担いつつ働くべきか、公共的なこととしてどこまで介入すべきか、社会的処方を扱うべきかについては、悩ましいのが現状です。余力があればやってもいいでしょうが、医療全体として介入・導入するには、高いエビデンスレベル良い結果もう少し欲しいと感じてしまいます。

 

 ちなみに先ほどの論文は2022年のものですが、2017年のSystematic Reviewの論文でもエビデンスは不十分な状況でした。

社会的処方に関する15のプログラム(2000-2016年)

  • ほとんどが小規模で、デザインや報告が不十分であった。
  • すべてバイアスのリスクが高いと評価された。
  • 一般的なデザイン上の問題点としては、比較対照の欠如、追跡期間の短さ、標準化され検証された測定ツールの欠如、データの欠落、潜在的交絡因子の考慮漏れなどがあった。
  • 方法論的な欠点は明らかであったが、ほとんどの評価で肯定的な結論が示された。

社会的処方は広く提唱され、実施されているが、現在のエビデンスでは、成功や費用対効果を判断するのに十分な詳細が示されていない。社会的処方の潜在性を評価されるには、将来的な評価は比較可能でなければならず、いつ、誰が、誰のために、どの程度、どの程度の費用で行うかを検討しなければならない。

(出典)BMJ Open. 2017 Apr 7;7(4):e013384. doi: 10.1136/bmjopen-2016-013384.

pubmed.ncbi.nlm.nih.gov

 2017年の論文では、「方法論的な欠点は明らかであったが、ほとんどの評価で肯定的な結果」というバイアスの強い結果でポジティブであったという部分は、社会的処方に対する期待の現れだと個人的には考えています(笑)。そして上手くいけば、今後に活かせるエビデンスづくりにもなったでしょうし、やったことをちゃんと評価することまで含めた最初の試みというのは評価できます(エビデンスが微妙な状態で「これは良いことだ」と謳い、やったままにしておくのとは異なります)。

 しかし、5年を経て先述の論文ぐらいまでは進捗していますが、やはり限界のようなものを感じます。もともと個別性の高い内容でもありますが、フレイルやサルコペニアへの医療介入によって筋力回復等の医学的な効果がなかったように、期待した効果がない可能性もあります。

 もっと評価が進んでどうなるのか見守りたいと感じる面もありますが、社会的処方を政策のような形で全体で前進させようと決断するのは、今でも時期早々、もしくは期待しにくいでしょう。もちろん、公金を含めて利害関係の絡むような業界づくりや講演事業・支援事業にしたいような人たちもいるでしょうし、立場(ポジション)という色眼鏡は意識しておいたほうがよいかもしれません。社会的処方エビデンスについての厳しい現実でした。

 感情に訴えかけやすい個人的なストーリーに心を動かされ説得されがちですが、専門家であればなおさら、そのリスクも意識しつつエビデンスチェックしてそれで判断しないといけないと感じました。昨今では政治・政策でもevidence based policy-makingと言われています。医療においても、EBM(Evidence-Based Medicine)の略がEmotional-Based Medicineになってしまっては残念ですから、日々更新です。また新たなエビデンス等に基づいて考え方も変えていくしかないと考えています。

 

 

SDH診療の視点と医師の専門性

 SDH(健康の社会的決定要因: Social Determinants of Health)という概念があります。経済的状況社会的状況個人や集団の健康状態に影響を及ぼすというものです。そこで、それらに配慮した診察をしようというのがSDH診療です。

 先ほどの、「表面的なSDH診療のみ*」の視点から言えば、医療機関で社会的な課題に医師が長い時間を費やしてもよいかもしれないと錯覚しうるということを述べました。しかし、医療者による社会的課題への介入気をつけるべきともいえる、次のようなことも言われています。

 

  • SDHの問題に取り組むためには、医学や医療の専門性を越境した活動が必要であり、医療専門職だけで完結できるものではない。無理に自分たちだけで対応しようとすると、手痛い失敗をする可能性がある。
  • 「条件がそろっているのであれば、餅は餅屋に任せるべき」だろう。つまり、社会福祉士地域包括支援センター、福祉事務所、社会福祉協議会、生活困窮者支援のNPOといった、人々の社会的課題を扱う専門職や専門機関に任せた方が良いことが多いだろう。

(出典)実践 SDH診療,日本プライマリ・ケア連合学会 監修 / 近藤尚己 編著 / 西村真紀 編,中外医学社,2023

 さらに、次のようなことも言われています。

 そういった生活支援や福祉の専門家と連携するためにプライマリ・ケアに関わる専門医療職が知っておくべきは、活動する地域コミュニティにどのような専門職や組織、頼りになる一般の人々がいて、それぞれがどのような役割を担えるのかといった情報である。関連する制度や社会資源についての知識も一定程度把握しておくべきだろう。そして、そういった地域の社会資源を把握している担当者(医療ソーシャルワーカーや地域連携室)との密な連携体制を作っておくことが大切だ。

(出典)実践 SDH診療,日本プライマリ・ケア連合学会 監修 / 近藤尚己 編著 / 西村真紀 編,中外医学社,2023

 

 SDH(健康の社会的決定要因: Social Determinants of Health)へのアプローチの考え方で、このように述べられています。社会的処方もSDH診療へのアプローチのひとつですので、社会的処方に関しても同様のことが言えるのではないでしょうか。もちろん、条件がそろっていなければ、医療でも介入する、介入せざるを得ない可能性はありますが、あくまで原則が大切だと考えています。介入せざるを得ない場合では相当な覚悟がいるのではないでしょうか。また、社会的処方が必要な困難症例こそ、社会的な部分まで医者が診るのが美徳でもないでしょう。一部の家庭医療界隈やポートフォリオで喜ばれるかもしれませんが、そういう集団で疲弊している医者・医療者もいるのではないでしょうか。

 

 一部の総合診療医・家庭医地域医療を謳う医師でみられそうな、リンクワーカーや医療の範疇を超えたまち(地域)での活動まで臨床の「医者が、医者が」(さらには医療系の「学会で、学会で」?)というわけでないと感じます。総合診療医・家庭医という名前から何でも医者ができるようにも錯覚しやすかったり、専門性などの問題から「仕事」を作らないといけないのかもしれないと思ったり、BPSモデルのような話から拡大解釈しやすいのかもしれないと感じます。また、低学年を中心とする医学生にも手の届きやすい内容なのかもしれません。しかし、自分のできること/できないこと把握連携の大切さも意識する必要があるでしょう。

 BPSモデルのように心理、社会的なこと抜きに患者さんは存在しませんが、バランスや多職種による包括的なケアがあってこそです。医師は全体を見るというようなこともありますが、医師の多くの場合の専門性生物医学的な部分なのではないでしょうか。

 

 患者さん医師何を求めているかという調査もあります。

大病院の入院患者またはクリニックの患者計445名への調査

  • 患者が最も医師(physician)に望んだものは、専門的な知識(50%)、忍耐強さ(38%)、情報提供(36%)、気配り(30%)、患者の利益の代表(29%)、誠実さ(28%)、最新情報(28%)であった。
  • 患者が最も医師に望まなかったものは、教育(1%)、親しみやすさ(3%)、研究(4%)、共感(4%)であった。

(出典)BMC Health Serv Res. 2004 Sep 12;4(1):26. doi: 10.1186/1472-6963-4-26.

pubmed.ncbi.nlm.nih.gov

 国などの背景や環境が異なりますが、いかがでしょうか。医師に専門性を望む患者さんが圧倒的に多い(50%)という結果です。あるに越したことはないですが、共感親しみやすさ(フレンドリーさ)は大して求められていないようです。Physicianとfamily physicianでどれほど異なるのでしょうか。

 医療者の視点(医療的に正しいこと)はもちろんのこと、患者さんからの視点も入れて、あまりにも独りよがりにならないようにニーズを確認するということの大切さも感じました。入院患者の割合、診療科ごとの人数等は詳しくは論文をご覧ください。

 

 医療者の中でも、医師には医師の専門性が他の多職種にはそれぞれの職種ごと専門性があります。例えば、医療の中であっても社会的な部分はMSW、心理的な部分は臨床心理士もいます。さらに外に目を向ければ、社会的処方の先の社会的な課題を扱う部署もあります。社会的処方やSDH診療などを知って、特に臨床において何でも医療でやると考えているような医師は、全知全能の神のようなスーパーマンなのか、意識高い脳内お花畑なのか、ダニングクルーガー効果による初心者の自信過剰なのかなどと疑問に感じる時があります。

 例えば、「つながり」「まちづくり」「地球環境」等と言い、根本的なその人にとってのコア(例: 臨床医→臨床医学)のアップデートを怠っているのであれば、脳内お花畑(優しいやぶ医者?)かもしれないと感じます。そういう人に限って、言葉の定義すら曖昧で、表面的なところのみで活動してしまいそうな人がいそうですが…。そして、医療者の中でも煙たがられそうですが…。

 

 医師をはじめとする医療者が医療(例: HPVワクチン)のことを、一般の人にも分かりやすいように直接はもちろんのこと、SNS啓発活動をすることは専門活かしたことですが、「つながり」「まちづくり」のようなこととなると、そこまで公衆衛生以外の医者の専門であるかは疑問に感じます。医療と切っても切り離せないものであっても、宗教が担っていたような機能やコミュニティが担っていたような生活の中でのことを医療者が担うことによる合理性費用対効果、エビデンスレベル、保険診療のような介入の根拠や合理性が認められる範囲か、そうでないかも考える必要があるでしょう。例えば、「免疫力アップ」を謳うような飲料までが医療であるかといえば、否定的な人が多いと思いますし、禅がストレスに良いといっても医療として医療機関でやることには微妙でしょう。

 

 下手に街で医療と関係ない所で「医者が、医者が」とすると、専門でもないことを出しゃばってして、周りにめんどくさがられて/萎縮されて、さらにはアウトカム悪くなっては元も子もないと思います。それこそ、「地獄への道は善意で舗装されていた」という格言があるように、悪意の有無にかかわらず、結果が劣ってしまうリスクがあります。日本ではリンクワーカーという制度はないので、医療に持ち込まれた社会的課題に対して、医療者がリンクワーカー的な部分までは担うことになる面もあると思います。そういう医療の延長として納得できる部分と、地域ボランティアをしてみたいというような個人的な活動(医師が前面の内容とは限らない)との境界は意識しておいてもよいと感じました。

 もちろん、孤独を愛する人やお節介・噂話に花が咲く狭いコミュニティにはうんざりというような人もいるので、価値観押し付けをしないようにしないといけません。そもそも病院・診療所に来る患者さんにしても、まちで出会う人にしても、話がしたいとも限りません。相手次第です。

 医療として介入せざるを得ない場合を除いて各個人範囲としつつ、医療系の学会等で街での本来個人の活動を前面に推すこと(「医者が、医者が」)こそ、多様性の履き違えなのかと感じます。個人的に活動したり、楽しんだりする分には良いと思います。そして、日常のどこかでちょっと意識して取り入れてみてもよいと感じました。ちゃんと把握することによって、受け手への押し付けでなければ、個人的に私もしてみたい/してみてもよいというような部分が生じる人もいるのではないでしょうか。

 それこそ、自分のダメな部分も含めて趣味や思想等の延長でコミュニティ活動をしたり、ちょっとした後押しとなる募金・寄付等をしたほうが良いと感じました。もちろん、個人的にコミュニティ活動に関わっているのも、素敵だと感じます。しかし、それほどの興味や時間等はないが、社会的に良いというように賛同できるのであれば、募金や寄付という手段も活きてくると思います。社会に良さそうなことSNS等で主張している人でも、活動はおろか、もっと手軽な寄付・募金等もしたことない人が意外にいて驚くことがあります。このような人のアドボケイトの原点は肥大した承認欲求なのでしょうか。

 コミュニティ活動に限らず社会的課題を扱う大きなところであれば、クレジットカードで楽に毎月の継続寄付ができるようなところもあります。ハードルを上げるような口先で表面的に良いことを言うだけよりも、各個人に合わせて簡単にやれることは複数あると思います。

 

 この本は、公衆衛生、社会疫学的な視点、詳しいデータも含めて丁寧に書かれています。気持ちよくなるぐらい弱者の代弁(アドボケート)をしています。実践と謳われていますが、医療現場SDHへの介入としてできることそこまで多くないことも把握できる良書だと感じます(本当の著者等の意図は分かりません)。ミクロな視点で医療現場でできそうなこととして、治療負担に目を向けて、医療費(薬や治療の選択、残薬に合わせた処方等)、受診しやすい時間・曜日・回数というようなことがあります。多くはSDH診療というフレームで意識しなくても、普段から意識する程度のことに感じます。

 

 他にも、書籍まで買わなくてもSDH診療へのアプローチに興味がある人は下記のような論文(Free article)も良いでしょう。全体像を把握しやすいFigure1もおススメです。

pubmed.ncbi.nlm.nih.gov

(文献)Pinto AD, Bloch G. Framework for building primary care capacity to address the social determinants of health. Can Fam Physician. 2017 Nov;63(11):e476-e482. PMID: 29138172; PMCID: PMC5685463.


 

自分のためのエゴ?

 医療に持ち込まれた社会的な課題に対して、社会的なつながりを処方することが「社会的処方」ですが、医学部や医師の世界で自分自身生きにくいこと街・地域(医療の外)に出れないことを穴埋めするためにアドボケート(弱者の代弁)をしながら、見たいところだけを見る(触れたいところだけに触れる)というような形で曲解して使われている可能性を感じました。共依存や、どのような人も来る可能性がある患者との距離感の近さによってはいずれ精神的な負担を感じる人も出てくるかもしれないというようなリスクを感じました。

 他にも、「こういう"医療者"になりたい」という想いに医療以外も含みすぎて、思想正義強すぎたり偏ったり、他職種のために何かすることがアイデンティティとなったり、満たされないものを満たしている可能性も感じました。他人にあまりにも耳障りの良い職業観や美徳のような価値観まで強要するのはいかがなものかと思いますし、医療者という職業に無理矢理こじつけすぎているような想いまでありませんか。まずは医療において、価値観や思想よりも機能をしっかりと果たすことで信頼されるのではないでしょうか。

 医療の範囲を超えて、専門外の素人としてではなく、医師(特に公衆衛生以外の臨床医)が社会的課題の専門職として口出しをしているとしたら、プロフェッショナルとして残念に感じました。結果として、穴埋めになることはあるでしょうし、切り分けにくい問題として少しぐらいは動機になることもあるでしょう。しかし、それを隠すためキレイごとで包んでしまうと、さらに厄介になると感じています。また、アドボケート(弱者の代弁)も大切ですが、口先だけでは、いつも耳障りの良いキレイごとを言っているが、ちょっとした思いやりのある行動ボランティア募金・寄付等しないのと似ているのではないでしょうか。

 そして、ナラティブアプローチのようなコミュニケーション技術に加えて、医師という職業や医療を使って自分自身の個人的なコミュニケーション不足・人と話したい欲求承認欲求・自己顕示欲満たすために、まちでコミュニケーションを取ることが目的だとすれば、恐ろしいエゴのように感じます。むしろ、その弊害があるのではないかと感じたこともあります。医学・医療を介さないとコミュニケーション等が取れないのでしょうか。そもそも普段の関係性の中でも、すべてではないにしても建前やキレイごと抜きでも気楽に話せるような人がいないのでしょうか。コミュニケーション技術をプライベートでも有効活用することも良いと思いますが、医学・医療や医療系学会とは切り離してやればよいと思います。カウンターのお店でも、フェスでも、コミュニケーションがあって充実した時間を過ごせるところがあります。

 例えば、まちの人と話してみたいとして医療でお膳立てした企画・場所を開いても、どれだけの人と自然な会話ができるでしょうか。医療機関や医療学生団体などにより医療でお膳立てしないと街・地域(医療の外)に出れないのでしょうか。広義に何かを提供するのではなく、家庭医療のアイデンティティのようなお話をされたら、医療者以上に街の人はどう思うのでしょうか。過去の経験から、医療絡みの会に来るのは医療に興味がある一部の人だけという可能性が高いでしょうし、医療への不満など、医師・医学生に遠慮して言いにくいこともあると思います。そういう配慮によって、形式的に都合良く気持ちよくコミュニケーションはできるかもしれません。それこそ、そういうコミュニケーションであれば、男性であればキャバクラやスナックへ、女性であればホストへでも行けばいいかもしれません。

 しかし、社会的処方の根本にあるような社会的なつながりであれば、最初から医療関係にお膳立てすることなく、自分のダメなところ込みで、人としてコミュニティ活動も含めて普通個人として街に出ればいいと思います。その人の人となりで自然と評価され、仲間が見つかっていくでしょう。

 「多様性」を言い訳に医師・医療系の中でするより、そもそも別でその枠の外で普通に行えば良い気がします。ボランティアまでしなくても、簡単なところで言えば、観光地化していない銭湯とか、カウンターのあるお店とか、個人のお店とかに行けば、自然コミュニケーションが生まれるものだと思っています。飾らずに普通に話していればいいのです。話の流れで仕事のことを聞かれて、「医療者だった」でよいでしょう。

 また、社会的処方を必要としているような人に対する社会的つながりを提供することが主な目的なのか(結果として様々な世代や人が集まることも)、普通の人には普段使いしにくい、ちょっと“おしゃれ”で自分にとって居心地のよい人向けの居場所やイベントを作りたいということが主な目的なのかも、意識したほうが良いと思います。後者であれば、社会的に必要で、医療(保険診療)・福祉として公共で介入する部分かも吟味する必要があると考えています。それ以上に、個人的にやってみたいことや楽しいことをするために高等な理由(医療、地域のため等)が必ずしも必要でしょうか。結果として他の人に役立つことはあるでしょう。特に大義名分のような理由なんてなくてもよいので、個人で楽しめばいいと思います(そして口に出さずに心の中なら、どんなことを感じてもいいでしょう)

 他にも身近な所では、主に高齢者の交流を図ることを目的でゲートボールをやっているところがあります。地域の交流が主の目的の定期的な企画ですら、点数で勝敗のつくチーム競技で勝敗に本気の人がいてチーム編成すら悩むこともあります…。一筋縄にはいきません。リアルでは時間的場所的制約もあって、なおさら若年・中年の人には、そういう会に参加するのは苦労するかもしれません。

 そもそも、社会的処方にしても、医療機関が接点になりやすそうな高齢者だけが対象ではなく、中年男性のような孤立した人もいいます。中年層より若い人であれば、チャットAIによる対話もある考えられるでしょう。リアルの趣味・ボランティア等のコミュニティだけでなく、手軽なオンラインサロンや、趣味のオンラインコミュニティといったところからでも良いでしょう。ただし、短期間に「何者かになりたい」欲や「簡単に稼ぎたい」欲のようなものを対象にした情報ビジネス集団やマルチ集団や、行き過ぎた自分探し・陰謀論等の怪しい思想等のグループには気をつけてください。まともな人が自分の周りから減って、そういう人間関係だけになっていき、そこから抜け出せなくなり、結果として孤立してしまう可能性があります。

 地方の狭いコミュニティのような場所で神童で「いい子」として育ってきて、殻があったり、狭いコミュニティで医者だとバレていて先入観のあるような場合であれば、持続性は抜きにして旅先や、ちょっと隣町や職場の近くのような場所やオンラインも使えるでしょう。仕事以外でも「医者はこうあるべき」というような古い概念に囚われている、囚われざるを得ない環境にいるのでしょうか。

 やはり、これらは社会的処方でも必要とされる社会的つながりであり、多くは医療の外で主に解決されるような内容でしょう。医師が「社会的処方」について知らずに、しかも医療者側の社会的つながりの欠如や勉強不足のようなものを自ら医療に持ち込んでどうするのでしょうか。共依存でしょうか。他職種に連携できる環境であっても、他職種の仕事までして働くことによって支持者ができることでアイデンティティや外発的動機が満たされるのでしょうか。まずは、社会的処方について把握して欲しいと思います。

 

 それでも、医者・医療者が専門職としてリンクワーカー以上に社会的課題に介入すべきだと考えるなら、「医師・医療者による社会的課題への積極的/直接的介入」というように新たに命名して行えばよいでしょう。医学教育の分野でも、再現性が高いのか分からない、個人の道徳観や価値観のような、似たようなことを一部で感じることもあります。医療者による直接的な社会的な課題への介入に対して研究で効果を測る等によって科学的根拠や高いエビデンスレベルを示したり、公共性の高い保険診療であれば費用対効果などを示したり、優位性合理性を示したりすることができれば、再現性のない個人的な趣味価値観の延長ではなく医療として広がっていくひとつの手がかりになると思います。




3. 最後に

 いろいろと本の内容から広げた感想を述べてしまいましたが、まずは大好きな人も、大嫌いな人も、社会的処方について把握してみてほしいと感じて、この本を紹介しました。なんでも「医師が/医療で」と出しゃばらなければ、またボランティア等の個人的な活動であれば、合理的な目的等を期待して考えられた素敵な活動だと思います。

 

 元々は、下記読書ログ医療への類推・感想での出来事から色々と考えました。再度この本を読んで、もう少し社会的処方の先の活動を見ておこうとなりました。そして先日、東北某所にて社会的処方をした先の社会的問題を扱う活動を個人的に非医療者を通じて開催者側のお手伝いとして参加させてもらい、色々と整理するきっかけになりました。その節はありがとうございました。

 医療者以外の社会的課題を扱う活動へあくまで人力程度に実施側として参加して、「医療者がどうこう言える問題ではない」、「その道の専門家の方が良い」と肌で感じたのも、この本の内容への理解深めることにつながりました。

mk-med.hatenablog.com

 

 改めて、医師としての軸となる専門性についても考えたり、社会的な課題に対して医療(臨床)で何でも「医者が、医者が」のような理解に苦しむ一部の人達とは適度に距離を置いておくことを自分自身に納得させる材料のひとつになりました。また、新たな出来事やエビデンスによって変化していくと思いますが、とりあえず筆をおきたいと思います。ありがとうございました。 



 

 読者レビューや目次、内容の概要をはじめ、気になる方はチェックしてみてください。

 

 また、2024年2月29日に下記の書籍『みんなの社会的処方 人のつながりで元気になれる地域をつくる』が出版されました。改訂のかわりにあたるものであると思われます。




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