"Med-Hobbyist" 医学の趣味人 アウトプット日記

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読書Log:『夢を売る男』百田尚樹 (著)|便所の落書きのような医療への類推・感想+関連3冊

読書ログ(<書籍紹介

夢を売る男百田尚樹(著)

~便所の落書きのような医療への類推感想+関連3冊

 

<目次>

 

 今回の読書ログは、今月名古屋に行ってきたことを発端にするものです。後述しますが、そこでの自分自身のモヤモヤするような感情を自覚しました。私自身を落ち着かせるために、やっぱり改めて読んでよかったという本です。

 もはや「医療への便所の落書き的類推」は、モヤモヤを言語化した掃き溜めのようなものです。それでも読んでみたいという人にのみ読んでいただければという勢いで書いてみることにしました。そうではない人は、「医療への便所の落書き的類推」以外をお読みください。

 

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【こんな人おすすめ】

  • 早く目に見える成果ようなものが欲しい人
  • 見せてもらいたいと思う人

 

 この小説を読んで、どう感じるかも自由です。手っ取り早く目に見える成果ようなものが欲しい、夢を見たいという人は、ぜひ読んでみて、それでも夢を見たいのであれば、突き進んでください。また、長いスパン夢を叶えたい人は「その他の本」で紹介している『海賊と呼ばれた男』、地域活性のような夢に興味がある方は『限界集落株式会社』についてもご覧ください。

 

 

1. 本書特徴

 自費出版をはじめ、お金を払ってでも小説やエッセイを出版したいというと、それを上手に扱うことでお客にして夢を売る編集部長のお話です。もちろん、過去に流行った小説家の懐事情や小説誌をはじめとする、今は売れていなくても別の仕事に就かない小説家の出版社への「コジキ」話というような話をはじめ、出版業界を興味深く描写しています。

 あらすじだけを聞くと、出版業界や作家に興味のない人は興味を持たないかもしれません。しかし、この状況が様々な所に類推できるということをまじまじと感じます。

 

  • お金を払ってでも小説を出版したいという人のコンプレックスや、自尊心優越感
  • そのような人に夢を売ることで成り立つビジネス

 

 お金を払ってでも小説やエッセイを出版しようとする人は意外と近くにいそうな人物です。スティーブ・ジョブズになりたいと言っているものの行動等が伴っていない若者、教育熱心ではないママ友と揉めながらも幼稚園レベルでちょっとだけ成功した教育ママなどが登場します。自費出版で詐欺までする会社も登場しますが、それでも夢を(見ることを)買いたい人がいるというのも事実です。しかも、10-20年のような長期間で能力スキルを学んで進んでいくのとは異なり、書籍化という形ですぐ目に見える結果のようなものを欲しがっています。

 自分の自己主張権威を付けたように見せかけるために、お金を払ってまで書籍化します。それにより、コンプレックスに蓋をして、自尊心優越感を満たしており、暴走する承認欲求のようなものを感じます。しかも、優秀な作品に送られる新人賞(無料で出版社が出版)のようなものに落選しても、それでもお金を払って書籍にしたい人がいるのです。出版社の不況も相まって、ちょうどよいビジネスとなっています。

 これを読むと、こじらせてまで何かを自己主張して承認してもらいたいと夢見るような人になると、夢を見るにはお金や代償が必要で、それを食い物にする人が寄ってくるということを感じます。一部のミスコンや芸能を志す人相手のところでは、実質がスクールビジネスであって、コンプレックスや承認欲求を埋めることを餌にされたりするようなものもあります。もちろん、営利企業ですのである程度の運営会社の利益は必要でしょうが…。他にも、テレビの天才クイズ番組ではないですが、似たようなものに楽しみを超えた何かを求めるのにも似ているような気がします。

 文章として読みやすく、お金を払ってでも出版したいと言っている人の状況がまじまじと想像できたり、両者の視点がしっかりと書かれているのもこの小説の良さでしょう。小説を書籍化したい人の気持ちだけでなく、編集部長側の視点も良さを引き立てていますし、共感できます。



 

2. 内容類推

 登場人物は、小説やエッセイを書籍化したいと考えている登場人物です。この書籍の発売は2013年(文庫本になる前)ですが、出版当時から10年後の現在当てはめてみれば、SNS自分の名前を売りたいと思っている一部の人でしょうか。中にはマーケティングにつなたい人もいるかもしれません。意識が高く自然と成果で目立つ人というよりも、意識が高いで現実に蓋をしてアピールを頑張っている人でしょうか。

 内集団バイアスの中での格付けのようなものを過剰に気にしていたり、自尊心過剰もしくは優越感に浸りたい人と言うこともできそうです。承認欲求はゼロにはできませんし、適度であれば上達にも役立ちます。どうしてもお金を払ってでも書籍化したいという人のように、自尊心や卓越感を求め、承認欲求暴走しているという状態です。すぐに達成したかのように見える「成果」を欲しすぎているのかもしれません。

 夢を見るにはお金が必要というのは、インスタ(Instagramで実際の稼ぎ等に見合わずインスタ映えを狙ってブランド品を買ったり、高級レストラン・高級ホテル等に行ったりするのと似ているかもしれません。表出している部分をマネしても、表出している部分を生み出しているコアが大きく異なるとでもいえばよいのでしょうか。ショート動画でも似たように視聴数を伸ばすために過剰にお金や労力を割いて頑張っているものもあります。

 医療でいえば、ハゲタカジャーナルへの投稿、存在意義の分からない学会・研究会の設立、限定的で小さな部門(例:学生の少ない学会で学生部門で努力賞のようにくれるもの)での表彰などへの執拗などでしょうか。一見するとすごいですが、「何、その学会?会員数何人?」というような所での肩書きや表彰もあったりします。学生・若手のうちこそ、内部事情を知らずに踊らされていたり、期待値だけで表彰してもらえることも多いですが、10-20年先まで継続した結果や継続年数関係なく驚愕するものとは異なることが多いと感じます。

 他にも、お金というのを夢見て、一部の不動産勧誘にまんまと乗せられて収益性のないワンルームマンションを買ったり、これをするだけで儲かるというような情報商材を買ったりするのに似ているかもしれません。大きな資本知識スキル時間というような優位性なく、簡単に誰でも稼げると考えているのでしょうか。そして、本当に儲かるものを赤の他人に惜しみなく教えるでしょうか。また夢が叶うことを夢見て、一部の実態や妥当性の伴わない耳障りの良いオンラインサロン自己啓発集団に入ったりすることも似ている側面があるでしょう。学生のうちぐらいはそれで失敗して糧にしていくという視点も分かりますが、地道なステップ飛ばして目に見える結果のようなものにあこがれすぎなのかもしれません。

 このように現在にも類推してみると、「夢」を見て、過剰に優越感に浸ったり、承認欲求を満たしたいという現代人のいびつな欲望を抉り出す作品です。



【医療への便所の落書き的類推】

 『夢を見る男』をある程度身近なところで類推してみたいと思います。話に興味があり、気分を害さない方だけお付き合いいただければ幸いです。

 医学・医療の領域において夢を見る側で類推すると、SNSやブログの次は(一般的な)論文の投稿ではなく、ハゲタカジャーナルへの投稿とも言えそうです。先日、名古屋に行ったことに結びつけると、SNSやブログの次は学会でやることかは疑問でも学会へ…。逆に夢を売る側であれば、問答無用ですが、治療見込みのなくなってしまったガン患者さん等、藁にもすがる患者さんの状況に付け込んで夢を売る医療のフリをしたエモーショナルなものでしょうか。

 今回の名古屋(私は豊田には行っていません)の話で言えば、学会であれば本来は褒められるべきことなんですが、「これは学会でやることか」というような意見を拝見したり、「総合診療、家庭医療プログラムの専攻医に意識高いの集団が…」(意識が高いのではなく、キラキラ意識高い系)というような意見を拝見したりするように、私自身もモヤモヤを感じずにはいられなかったのです。

 科学的根拠を深掘りし、予防医学診療との接点を探るようなものであれば、学会でも分かります。座禅体験のようなものも新世代民間医療起業展示会のようなものや同好会のような企画であれば、別に気になりませんが、学術集会・学術大会なのです。例えば、最近のブームで言えば、サウナが健康に良いと言われるからと学会でサウナ体験とか、アートが大切と言われるから学会で画家体験とか、違いますよね(今回の流れなら、やりかねないですが…)。

 医師から権利移譲のようなものとセットにしてプライマリ・ヘルス・ケアPHCというような名前にすれば、ある程度は大丈夫なようにも感じます。もちろん、社会学の概念で言うところの「医療化」のような医療の行き過ぎに疑問を持つこともあります。しかし、そのような次元ではなく、一部において、まちづくり/寄り添い/思いやり/自己啓発/芸術等は、ガイドライン等の臨床アップデートや成熟させるべくプログラムからの現実逃避自分探しのように感じます。純粋な遊び心とも違うもののフェスのように気分を盛り上げて群れつつ、医療に心地よくお膳立てして外に見える形で発信して承認欲求自己顕示欲を満たしているのかもしれないと感じるような部分があったからです。内的評価ではなく、見栄やすい外的評価に目標等を依存しすぎているのでしょうか。

 ごく一部の本当にすごい人のような神様に、すぐになりたいというようなシンデレラストーリーのようなからかもしれません。宗教でもないので、一部の神様とそこに妄信する上記のような人を集めるプログラム以上に、多くの人にとっては一定の質を担保した身近で合理的な研修システムとなることが個人的には大切であると考えています。そして、伸びしろ側として、すごい先生のところがあってもいいでしょう。

 医学アートとサイエンスという人もいますが、サイエンスの部分がしっかりしているからこそ、アートの意味があると考えています。三国志「騒ぐ+無能」という組合せがよろしくないのに類推して考えると、現実逃避+お膳立てという組合せのダブルパンチの組み合わせが相乗的に良くないと感じます。単なる自腹の仲良しクラブ同窓会懇親会ならそれでもいいかもしれないですが、学術集会というからには…ということです。このようなことが個人的なモヤモヤの原因です。

 「こういう医療者になりたい」という想いもあるかもしれません。もちろん、そういう個人的な考えを排した診察はできません。しかし、一側面からの単なる善には、危険も潜んでいる可能性があると考えています。「地獄への道は善意で舗装されていた」ということわざを思い出します。保険診療でやっていく以上、全体の中での一定の合理性平均的な話の中でやっていく必要性が生じる部分もあるでしょう。もちろん、個としてその人にどう向き合うかはありますが、医療(特に公共性の高い保険診療)の中では、学会のエビデンスガイドラインのような話を土台とした後に来るものでしょう。

 働き方改革とともに、医師1本以外の生き方も必要となってくる部分もあります。医療以外も別に好きにやればいいと思います。診療科固有の問題として、地域に入ることが多いゆえに医師という職業とその他が相対的に分離しにくい面があるのかもしれません。もちろん、誰しも職業も含めた生き様等に悩むことがあり、職業も重複する部分があります。しかし、その悩みを医療に持ち込み、自分自身の満たされないものを埋めることによって対価を得ているわけではなく、あくまでプロフェッショナルとして働き、医療行為(機能)への対価を得ているのです。このような混同共依存には気をつけたいものです。もちろん、稼ぎたければ、上手にそういう機能を提供すればいいでしょう。

 医療以外夢ややりたいことがあるなら、それはそれでその方向で活動したり、成果を出せばいいわけです。しかし、なぜ学会に…とか、医師として特に何かを活かしているわけでもないのに医師×〇〇と〇〇の方で医師を名乗ったり、医療と結びつけてアピールしてくるのかと疑問に感じるわけです。学会であれば、優先事項として最先端のアカデミックなことをやる場所です。それが無理でも、その学術的・臨床的なことのアップデートの場所でしょう。コアコンピタンスのようなとなる価値がどこにあるのでしょうか。BPSモデルのように心理・社会的な部分抜きで患者さんは存在しませんし、個人ごとのdisease⇆illnessの違いが存在するでしょう。しかし、医師としての強み生物学的な部分に多くあると考えています。他科でも人を診ているので"専売"でもありませんが、「人を診る」ことが専門としてもバランスが大切さであると考えています。臓器別でも必要な技術(BPSモデル、PCCM、…)をあたかも専売特許のように考え、独善的にも「皆から慕われる理想の医者像は家庭医のみ」というでも見ているのでしょうか。また、患者背景を知り、慮ることは大切ですが、その人のすべてを知ることはできないことも忘れてはならないでしょう。仕事や家庭の状況で生活が乱れて服薬状況(アドヒアランス)が悪くなるというような理解はできても、親族が持つ恨みのようなマイナスの感情からプラスの感情まで全部を理解できるわけでもないでしょうし、あまり「患者さんの背景まで理解している」と出しゃばらないべきだと感じています。書店で見かける各著者の考える顧客を満足させるための営業術接客術の延長ようなものなのでしょうか。

 また、ポリファーマシーは医療の観点ですが、老老世帯までいくと、医療介入後のアウトカムとして老老世帯でも帰れるように、通院できるように、というような配慮が入ってきますが、老老世帯のようなものまで生活や福祉ではなく医療(医師)としてどこまで扱うか、重要視するかは考えたほうが良いと思います。

 

 ちなみに、患者が医師(physician)に求めるものは最上位として専門的知識(50%)であるのに対して、共感(4%)や親しみやすさ(3%)は最下位の方という報告もあります(doi: 10.1186/1472-6963-4-26)。共感や親しみやすさもあるに越したことはないと思いますが、優先順位があるのではないでしょうか。

 自然科学の皮を被った人文学的アローチを中に紛れ込ませることで軸となる価値を置いてきぼりにして何でもしやすいのかもしれませんが、人文学的な側面との境界をある程度意識しつつ、医師として根拠となるエビデンスづくりや自然科学がまずは大切だと考えています。医師としての軸となるものでなければ多職種連携、医療以外の自然や宗教などであれば、それらを中心として、医療は橋渡しに留めるべきでしょう。

 健康の社会的決定要因(SDH)へのアプローチでさえ、無理に医療職だけで対応すると手痛い失敗をする、条件が整っていれば、人の社会的課題を扱う人や組織に任せた方が良いことが多いと近藤尚己先生の著作でも言われています。それでも医師がその種の専門職に連携せずに、色々と医師が社会的なことまで身体的・精神的リソースを使って尽くすというような「教義」のみであるとすれば、実は根本的な部分に多様性はないのでしょうか。日本の診療報酬が今のままであれば分かりませんが、軸となる価値見失うと、市場の原理の末にアメリカのようにFamily Medicineの給料低く成績下位が多い傾向の集団というような類似するような状況になってしまうのでしょうか。

 医師が遊びはもちろんのこと、医療以外も含めて街に出ていくことは賛成です。しかし、不要に医者というのでなくて、としてでもいいはずです。そして中途半端に医療に結び付けて真面目ぶる必要もなく、医療・医療に関わる人や学会とは別に、本気で遊ぶところは遊べばよいし、遊び心も生かせばよいと思います。例えば、ふとカウンターのお店に入れば、個人商店のようなところに入れば、お店の人やお隣のお客さんと話すことがあるでしょう。なんでも医療と結びつけなくてもコミュニケーションできます。むじろ、医療お膳立てしないとコミュニケーションできないことを隠すような、どこでも医療の延長で縛るコミュニケーションの正当化こそ、残念に感じます。

 さらに、不用意に医師や医療と結びつけることで、医師という権威を使って人を貶めたというような事態にならないかさえ心配です。ステマ広告のように企業ブースが企業ブースと分かりにくいのもあるかもしれませんが、診療科の独自性アピールのようなものという考えであれば、違和感を感じずにはいられませんでした。 学会の演題の論文化はどうでしょうか。世界的には演題のうち論文化されるものは37.3%という報告もあります(doi: 10.1002/14651858)。一方、日本のプライマリ・ケアの学会の演題の論文化率は3.8%という報告があります(doi: 10.1136/bmjopen-2018-021585)。世界と言っても母国語が英語であるかの有無、学会のアカデミックさ等、様々な条件の違いもあるでしょう。また内容全般の違いもあるでしょう。それにしても、論文化率10分の1は何でしょうか。若者の発表の練習場所等になるかもしれませんが、乱立した学会や地方会等で質の問題(例: 新たに発表する価値のない焼き増し)が話になることがあります。とりあえず学会で気持ちよくなれればよいのでしょうか。原因には、学会の内容、目的、質、人の集団的特徴、指導医・教育体制、専門性、専門外、アカデミックさ等、何があるんでしょうか。

 このような状況が、意識高いのような他から高く認められる物事はないけれども、まるで他から認められているかのようにアピールしたい状況だと見えて、モヤモヤとしたものを感じてしまいます。個人的には自費出版したい人と重なって見えてきてしまうのです。そもそも、このような状況に至るまでのところ(学生向け家庭医療セミナーや勧誘、医療というより自己啓発自分探しような企画、SDH診療の理想と現実の乖離専門医制度や研修システム等)の問題も関係しているかもしれません。

 そして、出版社の乱立と赤字部門のせいで、稼ぎ頭の自費出版をやめられない状況と、他の類似学会(すべてが存在する意義は?)や多数のセミナーと似たようなメンバーの、同じような企画(セミナー等を含む)の寄せ集めな感じや、地方の大きな会場が重なって見えてしまいました。合理的説明難しかった事柄が、コロナでやっとのことで簡素化(ネット化)できたにもかかわらず、「直接つながる」ということで大きく過去のように戻し、どなたでもブース等をどうぞとまでいうのはさすがに妄想ですかね…。イノベーションのジレンマのようなものも感じます。根底は従来のものであっても、人の目を引かせるような見せ方は今風で上手なので、例えるなら、令和の高性能FAXみたいな感じでしょうか。

 もちろん、運営側のメンバー、ターゲット焦点見せ方によって印象は異なってくるでしょう。内容としても宗教マインドフルネスコーチング、街づくり芸術等とプライマリケア・医療比重を含む)で大きく変わってくるでしょう。来年は全く違う印象かもしれません。

 

 類推と言いつつも、便所の落書きのような類推と感想です。どこの学会かということは言うつもりはありません。

 モヤモヤするのは、期待して近づいた身としての怒り悲しみのようなものが混ざったような結果でしょう。個人的に肝心な部分は、名古屋に行ったことでモヤモヤが増したこと、そしてこういうのとある程度距離を置いておいた方がモヤモヤ少ないということです。Facebookでもボスとボスに同調する人の露骨なヨイショを見るのが裸の王様集団を見ているみたいで嫌だからFacebookから離れている若い人や、逆にTwitterで若い人の批判的意見を見たくなくてミュートにしている年配の偉い人もいると聞きます。嫌なもの見たくないのは、お互い様というところでしょうか。もちろん、分断まで行くほどまったく目に入れないのも、お互いに問題だとも感じていて、適度な距離というのでしょうか。

 どちらも価値観的な側面もあります。患者さんに対してでも、医師同士であっても、薬の予後や孤独のリスクというような、事実啓発や相手の求めに応じることは良いとは思います。しかし、自分自身の価値観守りすぎ価値観押し付け、公共性等の必要な部分での明らかな偏り・優先順位の無視といったような部分はいかがなものかと考えています。

 そういう人たちを変えようとするのはなおさら大変であることも予想されますし、そして他人を変えようとしてモヤモヤして支障があるぐらいであれば、自分を変えるほうが易し、と感じます。学会としては10年以上、専門医が新たにできて5年ということで、システムをはじめとする成熟度今後の方向性判断する節目にもなると考えています。そういう意味でも、状況を類推できる小説を読むことで三者的な視点となり、ある程度の距離保つことができると思って、『夢を売る男』を読み直しました。

 少し距離を置きはじめた2022年の途中からは、モヤモヤは減ってわざわざブログを書くことも減りました。近づくと、恥ずかしながら自己主張したくなる私自身がいるようです。このように突発的記事増えてしまいました。エスカレートすると自費出版に対してのコメントがブーメランにもなる可能性もあり、距離を保とうという考えが湧いてくる訳です。そして、そのエネルギー他の目標達成に向けたほうが生産的です。

 「置かれた場所で咲きなさい」というような考えから、モヤモヤをその環境の中で解決しようとする人もいるかもしれませんが、やはり環境大切だと考えています。今からでも変更できるなら、まだ環境を選べるなら、例えば、まだ学生や初期研修医であれば3年目以降の希望診療科変更から、というように考えられるのではないでしょうか。名古屋の学会のような集団「色」違和感を感じて距離を取りたいのであれば、専門医機構だけで専門医を取るというような距離の取り方もあるでしょう(これもこれで制度の成熟度として疑問のところも…)。

 

 距離を保つという視点に加え、嫌なモヤモヤにも接する機会を残しておくという意味では、1本全振りのような状況ではなく、他に参加しつつ、軸を持ちつつ、「まあ、これに参加するか」というような感覚になると、余裕をもって見ることができるのかもしれません。理念には共感であれば、考えられる選択肢としては、例えば、ダブルボードでしょうか。そうすれば、岩田健太郎先生の提唱されている「ジェネシャリスト」にもなれますね。しかも、BPSモデルや患者中心の医療(PCCM)のようなものは、どこの診療科の専門というわけでもなく、どの診療科に行っても使う補助的な技術であると考えています。

 専門というのは自ら哲学のような御託並べる以上に、いないと困る」(機能)だと感じることもあります。患者さん側や雇用者側で差異こそありますが、そういうものに由来するニーズでしょう。「いないと困る」ほどでもないとしたら、「1人で何でも診ます」(例: 医師は1人の確保のみでOK、患者さんも医師は1人で済むので便利?)のような役立つ医療における機能ではダメなのでしょうか。

 他にも、複数の慢性疾患、誤嚥性肺炎や尿路感染、さらには背景には精神疾患や知的障害のようなケースがあります。それに対して演繹的には解決しにくく複雑な問題というのであれば、それに対するインセンティブを考えても良いと感じます。本当に必要とされる複雑な問題の解決であれば、必要な技術のはずです。もう学会もできてからの時期を踏まえると、学会等の上の先生方は働きかけて結果を示していても良い時期なのではないでしょうか。公共サービス(保険診療としては、パスを当てはめてそれなりに他科の誰でもできるほうが重要であると暗に示唆しているのでしょうか。この考え自体は嫌いではありませんが、上の先生が言葉のあやや思想・哲学だけでは状況の改善は望みにくく、若手個人としては離れること最適解でしょうか。

 また、基本診療領域のダブルボードだけでなく、総合医育成プログラムも選択肢に入ります。総合医は総合診療専門医(1階建て部分)ではなく独立した資格で、誰でも取得することができます。御託よりも機能に焦点を当てているようにも感じます。まずは内科でも外科でも好きな診療科に行って、ジェネラルな資格は後で考えればいいともなるでしょう。そもそも、資格としての価値があるのか分かりませんが、総合診療専門医の資格の絶対性を下げているように感じます。

 総合診療専門医の話に戻します。もちろん、専門医資格として維持するほどの魅力はないと考えるのであれば、年1回の総会に顔を出す程度というような感じでしょうか。例えば、総合診療専門医(基本領域専門医、"1階部分")では、"2階建て部分"のサブスぺとして透析専門医消化器内視鏡専門医集中治療専門医等にはなれない(申請条件を満たしていない)という資格として弱さがあります。総合診療専門医は資格としては不要というような判断をする人もいるでしょう。他にも、総合診療専門医の3回目(15年目)の更新には、多様な地域という名で1年間へき地勤務望ましいと、今月になってしれっと専門医機構によって追加されました。専門医取得までとは異なり、子育て世帯をはじめ、専門医更新自体難しくなる人もいるでしょう。そもそも学会ではなく、専門医機構に乗っ取られている状況は、外部との戦いをして勝ち取れないほど、内部を構成する学会同士の争いに必死で結束できなかったのではないかと勘繰りたくなるような医療系ポータルサイトの記事があります。分かりやすく例えるなら、内部でお山を必死に取り合っていたら、外部からお山が削られていったような感じでしょうか。いずれにしても、専門医機構手綱を握られていて勝手に変更されうるのは他の専門領域よりリスクでしょう。そして、機構とダブルなのも複雑にしている要因でしょう。

 良い先生もいらっしゃたり、理念共感できるところがあるにもかかわらず、研修システムのバラバラさ、不安定さ(例: 地方の指導医が1人の病院→指導の質の確保、異動による突如のプログラム終了のリスク)に加え、そういうところでも資格としての総合診療専門医難しさを感じます。

 資格そのものではないという意見もあると思います。しかし、そうすると議論が振り出しであったり、そうすれば、資格選びリターンというような意見も出てくるでしょう。目標=職業・肩書きのようなものであれば、それだけで選ぶ理由になりますが、目標を達成する手段のひとつであれば、広い選択肢から合理的に選ぶことにもなるでしょう。

 また、資格そのものではないとなると、「やりがい」「感動ストーリー」のような視点もあるでしょう。確かに何でも従事してみると、自然とやりがいを感じたり、感動することがあったります。しかし、主観的であったり、やりがいを感じないことや感動とは逆の感情のこともあります。そこまで診療科に特異的なものでもなく、後々感じるかもしれないものを前面にするのは危険だと感じます。同調圧力で「やりがい」や「感動」を感じないときの苦しさバーンアウトの原因にもなるのではないでしょうか。また「やりがい」以外に魅力がなく、その「やりがい」も感じない人からすれば、やりがい搾取でしょう。やはり、客観的な業務内容や待遇、獲得できる技能・経験等を見て、興味を持ったり納得して働いてみればよいと考えています。そこから自らやりがいを感じる人がいれば、他人に押し付けることなく伸びしろとしてさらに活躍すればいいと考えています。

 世間的にもどうでしょうか。「消化器内視鏡専門医が大腸がんをESDで切除する」というのと、「総合診療医が大腸がんをESDで切除する」というのは、仮にどちらの先生もできるとしても消化器内視鏡専門医にやってもらおうと思う患者さんが圧倒的に多いのではないでしょうか。一方で、「消化器内視鏡専門医の先生が在宅医療にやってくる」というのと、「総合診療・家庭医の先生が在宅医療にやってくる」というのは患者さんからすれば、どちらでも良いと感じる人も多いのではないでしょうか。世間からの専門性の高さという認識もどうでしょうか。厚労省からしたら、総合診療の主なメリット医療費抑制僻地での医師確保かもしれません。残る専門性は、他の診療科で抜け落ちやすいBioとPsycho、さらにはSocialに跨る覚悟のいるケースでしょうか。それでも、SDH診療のように医療機関でやれることが限られていたり、社会的課題を扱うところと連携すべきというジレンマもあると思います。

 そのような場合、総合診療・家庭医療マインドというような解釈もあると思います。今後の変化や自然の摂理を見守りたいと思います。




 

3. 魅力的で関連しそうな

百田尚樹さんの著書

 せっかくの読書ログなので、先述の「医療への落書き的類推」はさておき、『夢を売る男』の作者である百田尚樹さんの著書の魅力についても触れておきたいと思います。百田尚樹さんの著書といえば、最近で言うとは『橋下徹の研究』でも話題になりました。10年以上に渡って毎年100万部以上、累計2200万部以上売り上げている凄腕の著者です。既存のマスメディアでは、著書の良さの割に話題にならない(されない?)と感じています。

 まずは何といっても読みやすいことです。そして、ジャンルも様々にもかかわらず、感情面だけに焦点を当てた小説とは異なって、科学小説の科学的な部分のように、場面・状況等も作り込まれていると感じることが多く、臨場感想像力を高める学びにもなります。そして、そのストーリーには社会へのメッセージも添えられています。その本の中から、今回の医療への類推や読者層にも関連しそうな2冊を紹介しようと思います。

 

  • 『海賊と呼ばれた男』(上・下)

 『海賊と呼ばれた男』(上・下)では、日本の石油大手の出光興産がモデルとなっている話です。石油を武器に敗戦後の立て直しと世界との新たな戦いを描きつつ、自分の官庁や組織座席争い既得権益にしか興味がない人たちや外資と、長いスパンでの日本の国益(国全体の利益をかけて戦うものがたりです。その中で登場する国岡商店(出光興産がモデル)は定年もない、敗戦の不況でも誰一人解雇しない、一丸となった家族のような会社像を描いています。今の都合よい部分が残った日本的な会社像と異なる、ひとつの世界観です。読者層に関連しそうな内容に結びつけると、医局でしょうか。この国岡商店の世界観であれば、長時間労働でもここまで一丸となったものであり、ちゃんとリターンや保障もあります。それはそれで令和であっても受け入れられる人が増えるだろうとも感じる世界観です。

 私自身、法律等に違反すること(例: サービス残業)をブラック企業だと考える一方で、コントール可能な長時間労働はブラックとは考えていません。宝くじのような他人任せ、かつすぐ成果のようなものが手に入る物事ではなく、しっかりとした長いスパンでの目標があると、人・状況によって、人生のどこかで目標達成のためにそれなりにガッツが必要な時もあるでしょう。そういう視点でも、この世界観も参考になると思います。

 

  • 『モンスター』

 やはり、ブログの主な読者に焦点を当てると、医学生や若手の医師でしょうか。そういう視点で興味を持ちそうな本を取り上げるとすれば、『モンスター』(幻冬舎文庫)です。ブスと言われ続けた地方出身の女性が、名前も変わり、東京で美容整形をして元の影を残さずに地元に戻る物語です。そこで描かれる憎しみや狂いなどの入り混じった人生復讐劇を通じて、美容外科にお世話になる人の心理美容外科による物理的変化だけでなく心の変化など、ただ顔や体が原因ではないではない、幸せに対するメッセージ性もあると思います。想像力が豊かになる内容だと思います。

 

 

その他の著者

 まちづくりについても医療への落書き的な類推・感想でキーワード程度に触れました。「まちづくり」という言葉は定義から曖昧です。関連しそうな中でも町おこしについて触れた小説を紹介します。特に上手くいっている地域・ご時世で上手にやるのでもなければ、街じまいやスモールシティー化に向けた準備でもなく、過疎化高齢化の進んでいる地域で本気お金を稼げるようにして(働き口を増やして)を集めたいと思っている人に、想像力を豊かにするためにおススメです。

 医業は良くも悪くも参入障壁の中の世界です。その世界のに出れば、そこにはもっと競争があることはざらです。維持困難な村で、産業もなく農業も農協の助成金程度のジリ貧状態の中、それを抜け出して営農組織を作り、法人化していくストーリーです。そこでは、アメリカ型経営や現場主義的な経営のどちらだけでもうまくいかない苦悩や、田舎なり大変さ、愛着・慣習等による足かせ、田舎にもある利権、腹を括らずに田舎へ逃げてきただけの使い物にならない人地方の人材というような問題点から、組織として稼ぐこと、稼ぎ続けることの大変さを痛感する内容です。それこそ、生産性アップに加えて、長時間労働・従事が必要な時の話もあります。ビジネス以外にも、住宅事情や出会いの場所など、若い外の人に新たに来てもらうための問題点もあります。

 世間でいう主観的な「ブラック企業」のような面もあるかもしれません。私は法律等に違反していなければブラックとは考えていませんし、むしろ、本人の意志によってコントロールできるのであれば、一律的な時間制限には反対です。人より抜きん出ようと考えている人こそ、人生のどこかで必要な時もあると思います。それでも、何とか解決していくからこそ、物語として展開も含めて感動ストーリーになっています。

 そしてそのような部分が、人(特に若い人)を惹きつけるビジネスと、慈善事業や箱物行政、さらには兼業農家(農家は赤字・趣味)との違いを感じる内容になっています。医師で稼いだお金をばら撒くだけではない、継続可能人も集めることが可能なビジネスについて考えるきっかけにもなると思います。

 また、続編『脱・限界集落株式会社もあります。続編では、巨大モール新規建設による商店街一掃による戦いから、「ふれあい」「絆」「地域の力」という抽象的なきれいごとだけでなく、ビジネス部分としての合理的な分析の必要性もストーリーに描かれています。

 この本の出版は2011年、『夢を売る男』の出版は2013年です。約10年経過して、ようやくこの業界にも遅ればせながら似たような風が吹いているということでしょうか。もちろん、産業構造を意識したり、アップデートしたり、必要なことは別途学んだり、スキルを身に着けたり、行動したりすることが必要です。

 

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 気になるものがあれば、是非手に取ってみてください。あくまでストーリーなので、一般化とは異なりますが、想像力視野広がったり、自分自身に必要なものを見つけたりするヒントにはなるでしょう。便所の落書きのような類推・感想のように私ももう少し具体的な距離の取り方のプランも考えてみたいと思います。そうしたら、モヤモヤ減って、ブログの更新頻度も減るかもしれません。記事があと2つ(分割して3つ)は残っているので、そこまではとりあえずこのままで継続していこうと思います。

 本日もお読みくださいましてありがとうございました。

 

 

 

 今回の読書ログのきっかけとなった『夢を売る男』ですが、読者レビューをはじめ、気になる方はチェックしてみてください。この3冊とも新刊ではないので古本の値段こなれているかと思います。

 

 

【読書ログ一覧】

 最近の読書Logでは、医療ネタと組み合わせることも多くなっていますが、よろしければどうぞ。

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