『知ってるつもり 無知の科学』
スティーブン・スローマン&フィリップ・ファーンバック(著)
<目次>
明けましておめでとうございます。新年早々、地震に航空機炎上と大変ですが、過去の『News Diet』の読書ログの時の感想のように、私は私で自分に出来ることしての寄付等に加え、このブログも含め日常をしっかりと地道に回していきたいと改めて感じる次第です。
今回は、新年のスタートに今年も気をつけていきたいという自分自身の戒めにもなり、メッセージ性もある本です。医療情報を説明することのある身として合理的な説明だけでは通じないことを理解する上でも、偽医学情報やデマに騙されている人に合理的に説明しても正しいことを理解してもらうことが難しいことを理解する上でも、参考になりました。その良かった本を読書ログとして紹介したいと思います。
1.【こんな人におすすめ】
- 何でも知っていると思っている人
- 自分の無知・知らないことを認識できない人
- 因果的説明をすれば他人を説得できると思っている人
自分では何でも知っていると思っていても案外説明できないというようなことはありませんか。もっと極端な例を挙げれば、身近な例としては、社会や街、経済や貧困のことなど大して知っている訳でもないのに、「医療以外でも何でも健康につながっているから介入する」と言いたがるような医療者はいませんか。
初心者によるダニング・クルーガー効果をはじめ、自分の範囲を明らかに超えて何でもできると錯覚している人に対して、なぜ自分自身の知識を過大評価しがちなのかを説明してくれます。
他にも、因果的説明をしても合理的な判断ができない人の自己の過大評価の背景にあるものの話から、どのように対策していくのかを読み解くこともできると本だと考えています。例えば、医療に関してもエビデンスを用いたり、合理的な説明をすれば、相手に納得して選んでもらえるとは限らないということへの納得や、どのようにアプローチしたよいかのヒントにもなると思います。
2. 感想・印象に残った部分など
身近な例やホットな話題などに当てはめつつ、本の感想、印象に残った部分を紹介していきたいと思います。
第一章の『「知っている」のウソ』から興味を惹きつけて、「なぜ思考するのか」「どう思考するのか」「なぜ間違った考えを抱くのか」というようなテーマで次章へと移っていきます。
第三章の中の「前向き推論と後ろ向き推論」という節では、両者の違いを説明していました。前向き推論というのは原因がどのような結果をもたらすか、後ろ向き推論というのは結果から原因を推測することです。後ろ向き推論の方が時間がかかり、難しいとされるようです。
これが臨床推論(診断推論)にも当てはまりそうです。前向き推論(予測推論)では、Aという病気があるから頭痛や発熱があるだろうとなり、後ろ向き推論(診断推論)では頭痛や発熱があるから、A、B、…、Zという病気が考えられるとなります。やっと診断がついたときに「後医は名医」と言われることがありますが、後になって病歴や検査等の情報がそろっているだけではなくて、診断から前向き推論ができるからゆえに診断から症状等について自信をもって説明ができるからなのではないかとも感じました。
第八章の「科学について考える」という部分も興味深いと感じました。235-236頁の科学的リテラシーを測る質問における正答率の意外なほどの低さ、ワクチン接種反対派の話というような興味深い話を通じて、次のようなことが書かれていました。
科学に対する意識は、エビデンスに対する合理的評価に基づくものではない。このため客観的情報を提供しても意識は変わらない。科学に対する意識を決定づけるのは、むしろさまざまな社会的・文化的要因であり、だからこそ変化しにくい。
科学だけでなく、信念やコミュニティとかかわっており、特定の信念を捨てることはアイデンティティと深くかかわり、それを揺るがすことになる、というような興味深い記述へと続きます。偽医学やデマなどを信じる人が減らない理由なんかも腑に落ちます。
第九章「政治について考える」も興味深く、選挙や政策は因果的分析に基づく未来の結果ではなく、理解度がなくても価値観で決まることが多く、強い道徳的反応にも理由は必要でないということが書かれています。もちろん、政治に対して極端な意見を持つほど政策の中身を理解していないというような調査結果もありました。ポピュリズムのような印象も強く、新たな新党も躍進した2022年の参議院選や2023年の地方統一選挙についても腑に落ちるような内容でした。政治でなくても、お正月の初詣や実家に帰るべきというような意見が、合理性や結果ではなく価値観だと分かりやすいかもしれませんが、同じようなことが政治でも言えるということのようです。
また、極端な考えを持つ人についても触れられています。内容に対する理解度が低く、すでに持っている意見を支持するような論拠を補強する傾向にあるようです。そこでは議論ではなく、因果的説明の要求によって理解度の低さから認識してもらうことが解決の糸口になりそうな場合もあるようですが、そうでもない場合も相当あるようです…。
政治ではないですが、昨日(2024年1月2日)の羽田空港での航空機炎上でペットのことが話題になっていますが、「貨物室のペットが出せないなら死んでも一緒に機内の残る」というような極論を言う人はどうなんでしょうか…。大変な思いをした当事者の言葉でもありません。
また、「ペットを連れて行くな」という極論を言う人もどうでしょうか。大切なペットを失った人に対する感情は理解できないのでしょうか。航空機事故より自動車による交通事故による人の死亡数は多いわけで、ペットも似たような状況になると考えれば、そのような極論を言う人はペットを車にも乗せないのでしょうか。
そもそも、リスクとベネフィットのトレードオフでもあり、絶対的な正解や正義はない価値観に近いはずです。返信であれば、わざわざ反対の価値観をそこに書く意味もわかりません。
さらに、ただお気持ち表明のように「ペットも機内に乗せて」とお気持ち(価値観?)だけで訴えるのではなく、ペットも機内OKにしてペットも脱出可能なサイズや重さ等のゲージの規格を考える/ペットの機内持ち込み運賃やルールを作るというようなことも考えられるでしょう。犬も飼っていましたが、吠える声、犬の毛・臭いなど、客室に連れて行くなら連れて行くで迷惑になる可能性も容易に想像つきます。大型犬ほど言う事を聞かなかったら、時間勝負の避難の際に足手まといになる可能性も上がります。犬のしつけ度合も、ビビリ具合も含め様々です。また、犬でも恐怖を感じる人もいますし、蛇のような爬虫類を機内に持ち込んだら恐怖を感じる人がもっといるでしょう。さらに視野を広げれば、便ごとのペットの客室への搭乗の可否、プライベートジェットのような様々な選択肢もあるでしょう。また、ペットの飛行機移動はペットに負担でも、貨物室でのお預かりも含め引っ越しのようなどうしても必要となる場合もあり、一律に「乗せるやつが悪い」と言うわけにもいかず、複雑なものです。
また、海上保安庁の飛行機に搭乗していた5名の命も失っています。あってほしくない状況です。まだ全貌の詳細も分かっていません。マスコミの責任追及やSNSを含む世論形成、警察の刑事捜査によって解明を遠ざけるのではなく、事故調査によって再発防止を考える、というようなことも含めて未来の結果に向けての合理的な方向での働きかけ・対策など様々なことができるはずです。
再発防止に向けては航空関連の知識に加え、ヒューマンエラーに対するスイスチーズモデルをはじめ、様々な専門的な知識が必要になりますが。さらに、ペットが飛行機に乗ることは身近に話しやすいですが、再発防止の方が重要性が高いはずです。そう考えると、パーキンソンの凡俗法則(自転車置き場の屋根の色理論)のように、航空機事故の再発防止に比べれば重要性の低いことでも、皆が身近に感じるペットのことのほうに重点を置きがち/時間を消費しがちであると言えるのではないでしょうか。パーキンソンの凡俗法則についても本書に書かれていますので、興味のある方は読んでみてください。
本書 第九章の政治の内容に戻ると、政治でも未来の結果ではなく、政策に現れた価値観で判断してしまいがちであると書かれていました。政治だけでなく上記のように似たような場面でも使えそうです。
これこそ、行政が能登半島への往来自粛をお願いしているにも関わらず、一部のYouTuberや政治家(政党党首まで…)がイデオロギーの表明に留まらず能登半島に行き、見せかけの「ヒーロー」を演じて人気稼ぎや収益稼ぎをしています。中には行政のお願いを無視して能登半島に行っておきながら、能登半島への往来を自粛すべき等の行政がすでに要請していたことを自分の手取りのように言い始めるような、どうしようもない人までいます。
注目は集めにくいかもしれませんが、邪魔にならないように数週間後(?)のようなボランティア含め受け入れ可能になってから行って欲しいものです。政治家としての見せかけのパフォーマンスではなく、これを機に過疎化・高齢化(少子化)の進んだ地域の震災復興に伴う今後の在り方(例: コンパクトシティー化、山奥の限界集落の移住)を考えておいたり、このタイミングを逃さずにこの問題に長期的に関わっていって欲しいものです。
さらに、未来の結果(不要な渋滞減少→救助の速達・効率化等)ではなく、イデオロギーや思想、価値観や感情に偏って、そのようなYouTuberや政治家を支持する一部の大衆がいます。その時の感情はまったく分からない訳でもないですが、結果が悪くなる方が胸が詰まる思いです。政治家もSNSで広報することで収益化できる問題等もありますが、一部の政治家・政党と国民の双方向的な問題と感じずにはいられませんでした。(前段落ならびに当段落は1月8日追記)
能登半島地震の話にしても、羽田での航空機事故の話にしても、松本人志さんの週刊誌でのリーク(嘘か本当かも不明)にしても、『News Diet』の読書Logで扱った内容を彷彿とさせます。短いニュース(マスコミ)やSNSが、解決に向けた思考でなく、アテンションエコノミーであることが多いという問題点とも重なってきますね。
読売新聞に至っては「石川県穴水市の避難所の自販機破壊・金銭盗む→避難所パニック」という嘘のニュースを流してそっと消しましたね。不安を煽ったり、誰かを吊るしあげてたり、炎上させている一部のマスコミやSNSこそ、皆でそっと画面を閉じて干してしまいましょうと思うことがあるぐらいです(笑)(当段落前半は1月8日追記)。
そして何より、本書の提案の部分として
- 優れたリーダーは、人々に自分は愚かだと感じさせずに、無知を自覚する手助けをする必要がある。
- リーダーのもう一つの任務は、自らの無知を自覚し、他の人々の知識や能力を効果的に活用することである。
という部分は、戒めでもあり、上手な表現だと思いました。プラグマティズムの「内なる光を灯す」という思想にも似ていて、大衆は知識を与えられることよりも力を与えられる(動機づけされる)ことを好む、というようなものにも感じました(ここはあくまでも自然科学ではなく人文学的な話に近く、科学的な再現性ではなく使えたら運がよいという参考程度に考えています)。
以前、読書ログで以前に触れた総合診療・家庭医療界隈の学会の話題と、そこから社会的処方について触れたことがありました。これこそまさしく、この本の内容が当てはめられるかもしれないと反省しました。もちろん、そのような一部の人には時々触れに行く程度に適度な距離を取ることで2023年の後半は快適でしたが、何かもっと良いアプローチはあったかもしれません。
上記のような場面だけではなく、SNS上でのワクチンをはじめとするやり取りを見ていれば、科学より信念・所属する集団の考え(科学的な部分を認めずに信念・所属する集団の考えだけで選ぶ)というのが、良い例でしょう。科学には再現性や反証可能性があり、信念などの非科学とは異なることにも触れてます。また反証によって過去の正しかったことが科学的に覆されても、人々に浸透するまでに時間がかかってしまうことへの理解や戒めにもなりました。
専門家であれば、なおさらその分野の自然科学を知り、早くアップデートしていく必要性があるでしょうし、専門家でアップデートしていない人/知らない人には、エビデンスやデータ等の現実を提示していくことになるのでしょうか。そして知らない専門家も追いつく努力が必要な点は、本書の一般の人向けとは少し異なるように感じます。
そして、第十章以降で「賢さ」について定義し、育て方や判断の仕方を考えていくという結びになります。集団知能やコミュニティ、情報量、行動科学(ナッジ)といった今後役立つ視点があるかもしれません。
3. 最後に
今までも「何?」、「なぜ?」というようなことを発端としてブログを書いてきましたが、新年はブログでこの本でも書かれていた次のことをもっと意識してみたいと思います。
自分自身への戒めとしてもこのブログで因果的説明(≠今の意見を支持する理由)をすることを意識しつつ、知識があるという錯覚に陥らずに「無知の無知」にならないように意識してみたいと思います。ブログを書く際に自分自身の知識の抜けを意識するような場所として活用することで更新を維持していきたいと思います。
本日もお読みくださいましてありがとうございました。本年もよろしくお願いいたします。